第16章 政治
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これまでの章では「政治」という言葉を、狩猟採集民の一団や現代の職場内に発生する策略のように、おもに小規模な「同盟政治」を意味するものとして用いてきた しかしながら、「政治」という言葉はそれとはまったく異なる意味で用いられることが多い
芸術、文学、哲学といった名声ある分野では、多くの人が「政治的」であることをまったく恥じないばかりか、とかくあたかもそれが自分の抱負である
職場政治の下劣でみみっちい競争とは大きく異なり、それらは「市民権」「積極行動主義」「国政術」の政治であり、公共の利益を追求して国家を導く手助けをするもの
この政治の崇高なイメージは少なくとも古代ギリシアの時代から存在している
アリストテレスの『政治学』はある学者の言葉を借りれば「政治のなかで人々が見せているような、政治と道徳的な美徳のすばらしさに注意を促す」よう意図されたもの(Mansfield. Wehner, 2014における引用) しかし、壮大な政治の舞台は本当に道徳的な美徳を引き出しているのだろうか
よく言われるように「法律はソーセージのようなもので、作られるところは見ないほうがよい」
しかしながら本章では、政治家の行動と動機に焦点を合わせるのではなく、公式な民主主義政治に対する一般市民の関わり方を検討していく
きちんとしたデータの揃っている投票や政党への登録が含まれている
けれども、市民としての役割を果たすなかで、わたしたちはニュースを追ったり、問題をよく考えたり、友人と討論したりする
庭先に候補者や政党を支持する看破を立てたり、自動車にステッカーを貼ったりもする
ときには政治集会に出席したり、選挙運動に参加したりもする
政治における正義の人
政治に関する理想的な市民の姿は、誠実で、つねに社会のことを考える「正義の人」
人間が競争する社会的動物であることを考えると、このひとつの分野、すなわち国政においてだけ、わたしたちが突如として利他的な理想を実践しているとしたら驚きである
ところが、わたしたちの行動のいくつかの面は、政治的動機として正義の人の考え方を支持しているように見える
投票に関する文献から、人はたいてい物質的な自己利益のためには、つまり自分の暮らし向きがよくなるような政策や候補者には、投票しないことがはっきりしている
「かつて多くの政治学者は、人々は自分にもっとも利益をもたらす候補者や政策を選ぶという利己的な投票をしていると考えていた。けれども何十年にもおよぶ世論調査から、自己利益では政策の好みを適切に予測できないという結論に達した」(Haidt, 2012) 公的な学校助成金を支持する割合は、子どもを公立学校に通わせている親でもそれ以外の市民と大差ない。軍事の激化に反対する割合は、徴兵の対象となる若い男性でも、徴兵されるには年を取りすぎている男性と大差ない。そして、公的医療保険を支持する可能性は、医療保険に入っていない人でも入っている人とあまり変わらないだろう。
一方で、たとえ、誰かが「自己本位で」投票したくても、投票は経済活動として成り立たないという大きな問題がある(少なくとも直接的にはCaplan, 2007を参照) 投票には時間と労力がかかるが、それでいて個人的な利益はきわめて小さい
確かに候補者BではなくAが当選すれば生活は改善するかもしれないが、自分の一票が天秤を傾ける可能性はほんのわずか
期待値としては自分の一票はやはり1セントにもならない
同じような費用便益の計算は、集会への参加、関係集団への寄付、選挙活動など、それより関わりの大きい政治参加の形についてもあてはまる
これらの活動では、たんなる投票に比べて国全体の結果に影響を与える可能性は高くなるが、必要な投資も増える
自分にとって有利な政治的結果を得たいだけの市民にとっては、エネルギーの無駄遣いになるだろう
したがって、政治プロセスに投資しようと考えるほど十分にやる気があるのは利他的な正義の人のものだろう
しかしながら、驚くまでもないが、この聞こえの良い構図には往々にして別の見えにくい動機がある
政治行動の正義の人モデルに疑問を投げかけるようないくつかの疑問点を提示していくが、これが民主主義を非難しているのではないことを明らかにしておく
ここで疑問視しているのは個々の市民の動機であり、民主主義であれ何であれ、特定の制度の有効性ではない
たとえ有権者が理想的な正義の人ではないとわかったとしても、民主主義はなおも優れた政治の形として残る
実際、民主主義の魅力の多くは、市民に聖人になれと求めないところにある
疑問点
疑問点1 票の決定力を考えない
先に述べた6000万分の1という数字は、平均的なアメリカの有権者にあてはまる
しかしながら、それぞれの有権者が平均にあてはまるとはかぎらず、大統領選を左右できるかどうかは、住んでいる州によって異なる
たとえば2008年の選挙では、コロラドやニューハンプシャーなど「激戦州」の有権者が選挙結果を左右する確率は1000万分の1と比較的高かった
このような現実に直面すれば、実用主義の正義の人なら自分が激戦州にいる場合に投票意欲が著しく増加するはずだ
何と言っても、投票のコストはどこの州でも同じであるのに対して、利益(国レベルの結果に影響をおよぼす機会)は激戦州のほうが格段に高い
ところが、実際の有権者は自分の1票が決定的な影響を与えるかどうかについて驚くほど無関心
言い換えれば、決定力を重視したのは100人の有権者のうち4人未満だったということになる
同じくらい驚くのは、あまりに多くの人が非激戦州でわざわざ投票に行くという事実
疑問点2 無知な有権者
正義の人なら、有権者として事情に通じていることにこだわるはず
実際の有権者はしかし、政治家の業績や政策に関する立場よりも、その人物の地位、性格、選挙ドラマに興味を示している
人々は実際、学級委員長選挙や音楽オーディションテレビ番組でベストシンガーを決めるときのような、ほぼ何の政策的な結果ももたらさない「選挙」に大きな関心を寄せている
さらに有権者は、有意義な選挙においてさえ、どのチームが勝つべきかを判断する分析者というよりむしろ、ひいきのチームを応援するスポーツファンのような行動をとる
特定の政治問題にかけては、有権者は無知で有名
「連邦予算の何%が対外援助にあてられているか?」という質問に対して、たいていの有権者は25%と見積もり、10%が適切レベルだと思うと述べる
実際にはアメリカの「二国間援助」はわずか0.6%程度
有権者の無知を示すこうした例はたくさんあり、その無知がもっともらしく政治的な立場に影響を与えている
たとえば経済的な問題について、ブライアン・カプランは平均的な有権者の考え方が専門家の間で一致している考え方からかけ離れている分野をいくつも見つけ出している それは、排他的な偏り、反自由市場の偏り、雇用創出対策(不要な仕事)に対する偏り、悲観的な偏り(経済の進歩の価値を徹底して低く見積もること)など(Caplan, 2007) ここで、正直な正義の人ならいくつかの政治問題について自分の無知を認めるかもしれないが、実際の有権者はめったに認めない
数ヶ月の期間をあけて同じ政策について質問すると、彼らは頻繁に異なる答えを出す
わたしたちの目的がよりよい結果を出すことであるなら、全体的な政策の意図や精神だけに注目するのではなく、結果を測る方法や、市町村、州、連邦政府のうちどれがその特定の仕事を担うかといった政策の実行方法にも関心を寄せるべきである
たんなる専門的な内容よりも重要なそうした選択が、良かれと思って作られた政策の成功と失敗の分かれ目であることが多い
ところが、実際の有権者は実用的な詳細については無関心で、その代わりに価値観やりそうに焦点を当てることを好んでいるように見える
わたしたちは貿易協定やネットワークの中立性のような事実の理解に左右される問題よりも、同性婚や移民など強い感情的な反応を誘発する問題について議論したいと考える
さらに、自分たちの代表を選ぶときにも同様の方よりが見られる
わたしたちは、政治家が口先でうまいことを言ってさえいれば、彼等が法律を作る能力に秀でているか、体制のなかをうまく導いていけるのかといったことはあまり気にしていないように見えるのだ(Volden & Wiseman, 2014) 政治における正義の人は一生を政治に捧げなくてもよいということに気づいてもらいたい
「政治の時間」を賢く使い、状況に応じて調節しながら適度に参加するだけでよいのだ
この論理にしたがえば、正義の人は自分の知識が平均的な有権者より著しく劣っていると判断すれば、何の苦もなく選挙を棄権するだろう
そのような問題について彼らは、国の政治に関わらないことが愛国者としての義務だとさえ考え、ほかの無知な有権者にも同じように棄権するよう勧めるかもしれない
有権者が全国的な問題について情報を得なくても有意義に投票できる方法はある。たとえば「回顧投票」では、現職の任期中に生活が(期待していたより)改善した場合は現職再選のために投票し、そうでなければほかの人に投票すればよい。ほとんどの有権者がそうすれば、現職に人々の生活を向上させる強い動機をもたせることになる。けれども、ほとんどの有権者は投票方針としてそれに重きをおくことに乗り気ではない。 疑問点3 凝り固まった意見と強い感情
理想的な政治の正義の人はイデオロギー主義者とは正反対になるだろう
しかしもちろん、実際の有権者がそのように振る舞うことはまったくない
自分が間違っているかもしれないと謙虚に耳を傾けるのではなく、自分こそ正しいとばかりに大声で口論し合う傾向が強い
制作に関する世論の多くに一貫して緩やかで長期的な傾向があるという事実もまたそれを示唆している。おもに新しい情報をもとに世論が変わるのであれば、それは無作為な動き(ランダム・ウォーク)になり、過去の変化から未来の変化を予測することが難しくなる 政治的な考えが強い感情を伴っているという事実は、わたしたちが頭で完全に正直になっているとは言い難いもう一つの手がかりである
ある領域に対して実用的で結果重視の立場をとっているとき、人は新しい情報に冷静に対応する傾向がある
そのような実用的な領域では、自分の考えにそれほどプライドを持っておらず、反対されてもそれほど怒りを感じず、新たな情報に合わせて考え方を変えてもそれほど恥だとは思わない
ところが、自分の考えが非実用的な領域に関わっているときは、批判から自分の考えを守るために感情が前面に出てくる事が多い
確かに政治では賭けの代償が大きいかもしれないが、それでさえ社会的勘定の言い訳にはならない
賭けるものが大きい状況でストレスや恐怖が引き出されることはあっても、プライド、恥、怒りは引き出されない
専門的に言うと、怒りは少なくとも厳密な意味では「社会的感情」すなわち「他者の精神状態を代弁する感情」ではない
たとえば、国家の非常事態のさなかで新しい情報が明るみに出たとき、国の指導者が恥ずかしいからと考え直すことをためらっては困る
また、少なくともこれまでのところ政治的に中立な、世界規模の病気の流行や小惑星の衝突など、存在の危機について議論するときも同じく冷静で感情に流されることはない
ところが、話し合いが地球温暖化などの政治化された危機に向けられたとたん、人々の感情が戻ってくる
アパラチク
1930年代のソヴィエト連邦では一党によって、かつてないほど一般市民の生活がコントロールされていた
ソヴィエトのアパラチクにとっては、たんにスターリンに忠節を尽くすだけでは不十分だった
他者より多くの忠誠心を示さない者は裏切りを疑われ、しばしば投獄されたり殺されたりした
会議の締めくくりに同志スターリンに対する賞賛が呼びかけられた。当然、全員が立ち上がり、小さなホールに嵐のような拍手がこだました。3分、4分、5分と、拍手が続く。次第に、心底スターリンを尊敬している者でさえ耐えかねるほど、ばかなかしくなってきた。しかし、思い切って最初にやめる者などどこにいようか?6分、7分、8分、拍手は続く。もうこうなったら、心臓発作を起こして斃れるまでやめられない。11分が経過してようやく、製紙工場の工場長が事務的な表情を装って腰を下ろした。すると、奇跡が起きた。その男にならって、全員が不意に拍手をやめて着席したのである。助かった!しかしながら、秘密警察はそれを利用して独立心の強い人間を発見する。そうやって彼らを排除するのだ。その夜、工場長は逮捕された。あっけなく強制労働収容所10年の刑が言い渡された。(Solzhenitsyn, 1973) スターリン本人はその場に立ち会ってさえいなかった
現代の多元的な民主主義においてさえ、アパラチクと同じ類の動機づけに直面している
わたしたちのものはただ相当に弱いだけ
「正しい」考え方を述べれば褒美が与えられ、「正しくない」考え方を述べれば罰せられる
ただし中央権力ではなく、仲間の市民によって
忠誠を求める同盟関係は必ずしも典型的な「政治」には見えないことに注意してもらいたい
私たち一人ひとりは、ベン図のように部分的に重なったりしている多くの異なる集団のメンバーで、こうした集団すべてが忠誠を求めて競い合っている
元国務長官マデレーン・オルブライトの「助け合わない女性には地獄に特等席が用意されている」という主張はその一例(Albright, 2016) そして、各集団にどれほどの忠誠心を抱くかは、個人と文化の多くの要因に左右される
本書で、政治行動がおもに同盟の忠誠に突き動かされていると述べるとき、それは民主党や共和党といった「政党」やリベラルか保守かといった「政治イデオロギー」を選んで焦点をあてようとしているのではない
右か左かの分け方は現代のリベラルな民主主義、なかでもこの数十年で二極化が進んでいるアメリカではたまたま重要視されているが、状況が変われば焦点がシフトする可能性もある
例えば、国家が戦争を始めれば、国内の政治的な分裂は鳴りを潜めて、愛国心と国の団結が前面に押し出される事が多い
言い換えれば、状況が関係している
それでもなお、本章では、一般個人の政治行動を、よりよい結果を得るために誠意を尽くそうとしているのではなく、「自分の側」に向けて忠誠のシグナルを送ろうとしていると考えたほうがうまく説明できると仮定する
つまりわたしたちは、正義の人の動機にくわえて、アパラチクの動機、すなわち自分を取り巻く集団に忠節を尽くしているように見せたいという動機も心に抱いている
日常生活における政治的動機づけ
本書の主張に不可欠な事実は、政治が、投票所と数少ない目に見える政治活動だけにかぎられた、隔離された舞台ではないこと
むしろ「政治」の動機は生活の多くの領域に溢れ出ているため、わたしたちの内部にいるアパラチクは自分の政治的な攻勢に絶えず気を配っていなければならない
デートと結婚を例にとろう
2010年の調査では、共和党員の49%と民主党員の33%が自分の子どもが反対の政党員と結婚したらショックを受けると回答した
別の調査では、80%の人が、たとえほあkにもっと成績のよい応募者がいても自分の好きな政党のメンバーに奨学金を与えると答えている
政治的アイデンティティは嫌悪の格好の的にできるが、人種的アイデンティティはできない。(中略)今日では、社会集団について負の感情を表明することはできない。けれども、政治的なアイデンティティはそうした制約によって守られていない。共和党員はみずからの選択によって共和党員になった人であるから、何を言ってもかまわないのだ(Klein & Chang, 2015) 職業によっては、所属政党に応じ出世が著しく左右される
たとえば、大学教授は民主党に大きく傾いている
全米では共和党1に対する民主党は1である。けれども大学教授ではその比が民主党5、人間科学と社会科学ではほとんど8だ。後者についてはこの40年で2倍になっている。経済学者が他の研究者から信用されないのは、彼らの比率が「保守」3だからだ。Cardiff & Klein, 2005も参照 社会学教授の4分の1が、自分の学部で働くひとに共和党ではなく民主党を望むと認めている(Gross, 2013) おそらく共和党の応募者に対して自分では気づいていない無意識の偏見を抱いている人の割合はもっと高いだろう
発表論文の質が同じである場合、共和党の研究者は民主党の研究者と比べて著しく低いレベルの大学で働いている
日常生活においてさえ、わたしたちは周囲の政治的意見に従わなくてはならないというプレッシャーを感じる
たとえば、頻繁に会話をする相手となら、アメリカ国民は少なくとも仕事、スポーツ、娯楽と同じくらい政治を話題にする
恋愛、仕事、社交に絡むこうしたすべての動機づけが、自分の身の回りのコミュニティが信じている政治的考えを採用するよう圧力をかけていることは間違いない
けれども、そうした圧力に屈するという状態は、一夜で作り上げられるものでは決してない
だれでも不人気な政治的意見をしぶしぶ認めなければならないような状況に置かれたことがあるし、何人かが顔をしかめるのをおそれて突然意見を翻すかもしれない
しかしながら、自分では世間で「不人気」な意見だと述べておきながら、他者との食い違いを得意げに話している場合には、その主張は眉唾ものだと思うべきだろう。ひとりの聴衆に「不人気」に見えるものは、往々にして、顔飲み得ない他の有権者の好みに合うものだ。
けれども同じ圧力が何年も何十年もかけてじわじわと続けば、自分の意見がゆっくりと周囲に同調したとしても不思議はない
政治的に単一のコミュニティに生まれ育ったような極端な例では、自分の考え方に対するそうした社会的影響に気づくことさえまったくないかもしれない
忠誠シグナリングの論理
個人の利益 対 集団の利益
まず、おそらくもっとも重要なことに、わたしたちは忠誠シグナルを送りたいのであるから、必ずしも自己利益のために投票するとは限らない、つまり自分個人に大きな利益をもたらす候補者や政策に投票しないこともわかる
もちろん、多くの問題において集団と個人の利益は同じものである
けれども、それが異なる場合には、わたしたちはたいてい自分の集団に合うものを選ぶ
その意味では、政治は宗教と同じく、チームスポーツである
特定の問題が地理的に二極化する場合、たとえば南部に住んでいる人は南部の利益にかなう立場に投票する傾向がある
問題が人種的に二極化する場合には、黒人なら、たとえ一部の黒人が損を被ることになるのだとしても、黒人全体にとって役立つと思われるものに投票する事が多い
そしてもちろん、問題が主要政党で二極化するとき、わたしたちはたいてい支持政党の方針に沿って投票する
結束を見出したり集団の利益に反して投票したりすることが決してないわけではないが、そのような場合には、自分が仲間とコミュニティに対して不誠実に見えるというリスクを負う
顕示的投票とバッジの魅力
政治学者はしばしば「手段としての投票」と「見せるための投票」を分けて考える
手段として投票する人は、結果に影響を与えるために投票する
正義の人のようにまったく利他的か、あるいはまったく利己的な場合もあるが、いずれにしても自分の一票で変化をもたらしたい
たとえ自分たちの選んだ候補者が全員落選しても、彼らはその候補者に一票を投じたことに満足する
したがって、アパラチクは顕示的有権者だが、ただの顕示的有権者ではない
外的な利益は考えず、自分が気持ちよくなるための行為
この見解にしたがえば、投票行為は「自分のアイデンティティを確認する」あるいは「帰属意識を感じる」など、心理的な報酬を得るためのものと考えられる
しかし、本書を通じて見てきたように、厳密に心理的な説明は往々にして自己欺瞞の餌食になり、とかく社会的な説明にすり替えられてしまいがち
自分の頭の中で始まって終わる動機づけは実質的な結果をもたらさないが、外的な動機づけは物質的かつ生物的な実際の結果を伴う
ゆえにアパラチクは投票所で自分の意見を表明することによって社会的な報酬を得ている顕示的有権者である
さて、投票行為は秘密投票、つまり最悪の有権者操作を防ぐための重要な制度によって保護されている
けれども、人は見えないものは評価できないので、自分の政治信念を評価されたいと思うなら、それを宣伝しなければならない
したがって、アパラチクにとっての本当の利益は、投票そのものではなく、選挙運動に参加したり、問題について話し合ったり、ソーシャルメディアに投稿したり、友人や家族と選挙報道を見たりといった、選挙を取り巻くほかの様々な活動によってもたらされる
また、投票しない人までもがわざわざ政治的意見を作り、さらに重要なことにはそれを論じる理由の説明がつく
また、自分の政治信念を宣伝する必要があるとすれば、政治の「バッジ」の魅力も説明できる(Haidt, 2012) たとえば、物理的な世界では、前庭に看板を立てたり、車にバンパーステッカーを貼ったりする
ソーシャルメディアでは、政治的な意味を持つハッシュタグを使ったり、プロフィール画像をそのとき話題になっている首長の指示を示すものに変えたりする
またスローガンを採用したりする
こすいたスローガンは、主張としては問題を簡略化しすぎているが、バッジとしては優秀だ
ある意味、バッジの利用は「正義の人」としての活動、つまりほかの人の考え方を変えようとする試みとして解釈することもできるかもしれない
しかし、これまでの各章で見てきたように、バッジはスポーツチーム、音楽のサブカルチャー、宗教コミュニティなど非政治集団とのつながりを示すために用いられる事が多い
したがって、バッジには政治の世界に「変化をもたらす」試み以外に、集団への忠誠を宣伝する効果があると思われる
忠誠には犠牲がつきもの
誰もが自分の狭量な自己利益のためなら理にかなった行動をとれる
そこで、忠誠を示すためには、たとえば同志スターリンを11分間たたえ続けるような、他のあまり忠実ではない人がやらないようなことをしなければならない
これが昔ながらの正直な、または犠牲を伴う、シグナリングの原則が作用してる状態
この論理は投票行動を解明するために役立つ
アパラチクは投票行為によって得られる個人的な利益が宝くじの購入より少なくても気にしない
実際の所、色々ない身で、犠牲こそが投票を促していると考えられる
投票は、たとえば共和党に投票するなど特定の政治同盟に忠誠を誓うだけでなく、国全体に対して忠誠を示す役割も果たしている
一般に、投票は国民の義務であり、個人の利益と費用に関係なくやらなければならないことだと広く考えられている
ゆえに、むろん自分の犠牲を他者に宣伝できるのであればの話だが、忙しい日中にわざわざ投票所に出向いて民主主義の祭壇にひざまずけば、愛国心ポイントを獲得できる
このことから、アメリカの多くの投票所で国旗をあしらった「投票しました」ステッカーを配っていることがわかる
コラム16 正義の投票を試みたケヴィンの災難
著者のケヴィンは大学生だった頃合理的な投票プロセスを実際に試した
様々な問題点について自分の立場を数値で表し、情報に詳しい友人に主要な各候補者について同じことをしてもらった
民主党指名候補のアル・ゴアに投票した
心理的な意味で、その方法からはまったく満足感が得られなかった
その手順には社会的な報酬がほとんどなかった
政治の名のもとにわたしたちが払っているもう一つの犠牲は、自分の社会、仕事、恋愛の機会を制限すること
同僚、友人、配偶者にイデオロギーの一致を求めれば求めるほど、選択肢の範囲は狭まる
保守的な価値観を持つ会社の仕事を断った民主党員なら、リベラルな仲間に次のようなメッセージを送っていることになる
「政治における『わたしたち側」のことを大切に考えているので、仕事の機会さえ見送りました」
もっとも大げさな例がvotergasm.orgのウェブサイトにある。訪問者は選挙後に1週間から4年間の範囲で、投票棄権者とはセックスをしないと宣言できる。Sohn, 2004を参照 もちろん、その人が自分のメッセージに気づいているとはかぎらない
忠誠心には(戦略的)不合理が必要
第5章で述べたように、忠誠が報われるような状況は自己欺瞞と戦略的不合理の温床である
自分の信念に忠誠シグナルの役割を担わせるためには、単純に「事実にしたがったり」「理性に耳を傾けたり」するわけにはいかない
そうではなく、理性を超えたものごと、ほかのあまり忠実ではない人が信じないようなものごとを信じる必要がある
「人は考え方次第で歓迎されたり非難されたりする。よって、もっとも真実に近い考え方ではなく、考え方の持ち主に最大数の同盟相手、後援者、あるいは信奉者をもたらす考えをもたせることが、心の働きの一つであるかもしれない」(Pinker, 2013) そう考えれば、有権者が情報入手に無頓着な理由がわかる
主要な同盟の「正しい」考え方を採用してさえいれば、忠誠心について満点の評価がもらえる
情報が必要ないのは、見せるという目的において実はあまり関係ない
政治信念に基づく主な行動は呼びかけと投票であり、いずれも日常生活に実質的な影響は与えない
そして、ごくたまに政治信念が本当に具体的な行動を示唆すると、わたしたちはためらいなくそれを無視して、まるで正反対の考えを持っているかのような行動さえとる
たとえば「すべての人に同じ機会が与えられるべき」と考えていながら、自分の子どもを一流の学校に入れようと躍起になる
しかしながら、批判的思考と妄信的追随のバランスはとらなければならない
あまりに強引な考え方を採用してしまうと、愚か者に見え、忠誠心を示すことで得られる利益が相殺されてしまう危険がある
優秀なアパラチクは知識が豊富で懐疑的な態度させ見せる
ただしその懐疑心は必ず、自分の政治集団の神聖な教義を問いただす一歩手前で止まる
政治信念が行動を起こすためのものではなく忠誠心を表明するものだという事実からはまた、わたしたちが自分の信念と感情的に結びついている理由と、政治討論がしばしば光より熱を生み出す理由もわかる
たとえば会話の相手とたがいに異なる政治集団に忠誠を誓っているときに、信念が理性と根拠ではなく、社会的要因に基づいていると、意見の相違は避けられず、しかもたがいに相手の主張には耳を貸さない
意見の相違につながるもう一つの要因は、目的の違い
たとえば、あるい人がブルーカラーの職を優先しているのに対して、もうひとりが経済の効率を優先しているような場合だ。
しかしながら、政治討論にはしばしば「公共の利益」、つまり、全員にとって最適なものごとという何よりも大切な共通の目的がある。あるいは少なくとそれが目的であるかのように装わなければならない
むろん、最終的には適切な主張と根拠が勝つのかもしれないが、政敵との白熱した議論の最中にそうなることはめったにない
そしてたいていの場合、敵が負けを認める可能性がまだまったくない時点で、無関心な第三者を納得させなければならない
したがって、政治の弧が真実に向かって曲がっている可能性はないことはないが、それは長く苦しい道のりである
妥協を嫌う
忠誠シグナリングによくある兆候は妥協を好まないこと
成果にしか関心のない実用本位の正義の人であれば、妥協はいたって魅力的
前進するための最適な方法である場合が多い
けれども、アパラチクのように政治がパフォーマンスであるときには、結果そのものは忠誠心の見栄えほど重要ではない
そして自分の忠誠シグナルを発信する最適な方法は「一歩も譲らない。嫌ならけっこう」と述べることにほかならない
この種の態度は妥協点を認めない
そのような二極化した状況で妥協を支持すると、忠誠が足りないと非難される恐れがある
一般には、すでにできあがっている一致した意見から少しでもはずれようものなら、怪しいとみなされる
この種の態度は選挙中に見ることができる
民衆の代表が「人々の意思を反映する」ことが民主主義の真髄であるにもかかわらず、有権者の意見の変化に合わせて立場を変える政治家にはたいてい罰せられる
「有権者は経済的な立場を変える政党は賞賛するが、それ以外の社会的な立場を変える党は罰する(中略)たとえ有権者の好みの変化に応じて(社会)政策を調整するのであっても、その党は票を失う」(Tavits, 2007) 一次元の政治
多種多様な問題が存在し、その問題に対してとりうる立場もまたたくさんあることを考えると、出入国管理を厳しくすることに賛成する人が減税と学校の選択と昔ながらの結婚観も支持する傾向にあり、このうちのひとつに反対する人はこれらすべてに反対する傾向があるのは不思議に思える
この立場のパッケージ化は一般市民だけでなく政治家にも見られる
政治信念にはなぜ、かくも高い相関関係が見られるのだろうか
次元の数が少ないという現在の政治現象は、一つの重要な道徳的論争が原因ではなく、政治同盟競争の一般的な特徴であるように思われる
つまり、政治集団にはほんの一握りの主要な同盟しか残らなくなるまで同盟を結合していく傾向があり、同盟が結合するたびに、メンバーが敵対する同盟ともっとも明確に異なる問題点に注目して集団の一員として忠誠を示すのである
ゆえに主要な同盟が二つしかなくなった今、それを分け隔てる次元がひとつしかないのである
また、あまり見分けのつかない問題に注目する有権者と政治家は、主要な戦いに参加していないように見えるため、ペナルティを課される
これらの再編から、主要政党は必ずしも不動の信念に基づいて争っているのではなく、ときに矛盾することもある様々な目的の複雑な寄せ集めだとわかる
互いによく知らないけれども同じ利益を求めて集まった一時的案仲間が、忠誠心という結びつきが一因となって団結しているだけ
極端な活動家
政治にどっぷりと浸かった市民、ほぼすべてを政治目的に捧げている人についてはどうか?
彼らは正義の人なのか、アパラチクなのか
兵士の場合を考えてみよう
ある意味、彼らは最も極端な活動家
もちろん愛国心に突き動かされていることは間違いないが、それと同時に、兵士は遠く離れた組織や国家より、周囲にいる仲間への忠誠心から戦っていることでよく知られている(Costa & Kahn, 2009) 同様に、もっとも極端な自爆テロを含め、テロリストは同胞と結束を固め、感銘を与えたいという欲求が動機になっているように見える
各国内でもっとも献身的な活動家はおそらく、自分を大義のために戦う政治「戦士」とみなす人々だろう
その行動が本人と他者の両方に害を与えるおそれがあるため、彼らは政敵から政治「テロリスト」と呼ばれている
いずれにしても、彼らの活動を根本的に自己犠牲と考えるのはやめたほうがよいだろう
なぜなら彼らはそばにいる仲間から大きな評価を受ける立場になるからだ
政治家の選挙運動に貢献した人はしばしば、その候補者が当選したあかつきには新たな政権で何らかの役割を与えてもらうことを期待している
まとめ
謙虚な市民はなぜ遠く離れた権力の世界のできごとを、とりわけ、投票のようにほとんど無益な政治舞台の活動を気にするのだろう
そんなことにかまわず、家庭や職場など周囲の問題に目を向けたほうがよいのではないか
本章で得た答えは、わたしたちが遠い国政を媒体に用いて身の回りの利益を狙っているということ
アパラチクであるわたしたちは、国民としての美徳よりも、政治的な同盟に対する忠誠心を見せる欲求に基づいて行動している
そして、政治がパフォーマンスであるなら、聴衆はおもに自分の仲間だ
もちろん、このイメージは不完全だ
これ以外の政治的動機が間違いなくあるだろう
人によっては内面の正義の人が強力で、たとえ友人を失うことになっても、ときにそれに舵をとらせることもあるだろう
まれに政治的に同調しないことで報われる人さえいるかもしれない
けれどもだいたいにおいて、わたしたちが立ち上がって自分の政治信念をたたえるとき、それはソヴィエトのアパラチクと同じ行動をとっているのである